全国高校野球選手権大会の出場校のデータを揃えた週刊誌の増刊が「表紙だけ」女子を起用している。
SNSでも何か気持ちが悪いなど、疑問視する声が上がっている。ただ、何がおかしいのだろうか。
スポーツ業界におけるジェンダーの問題を研究する学者に何か問題があるのか聞いた。(弁護士ドットコムニュース編集部・塚田賢慎)
●書店で際立つ「女子」表紙
この増刊「甲子園2025」(AERA増刊号)は、大会を主催する朝日新聞の子会社、朝日新聞出版から刊行されているものだ。
毎年、大会にあわせて増刊は発行され、漫画『タッチ』のヒロイン(高校野球100年記念号)をのぞき、スタンドで応援するチアなどの「女子」生徒を表紙に起用することが続いている(週刊朝日の増刊だったが、同誌が2023年に休刊した後はAERAの増刊となった)。
なお、春のセンバツを主催する毎日新聞の系列『サンデー毎日』も同様の増刊を出しているが、表紙は選手だ。
選手を表紙に起用した出版社のものとくらべて、書店の特設コーナーでは「女子」の表紙が際立つ。
販売戦略としては一定の効果が見込めそうな気もする。
ある大型書店の高校野球特設コーナー(2025年8月18日/都内)
ただ、仮に女子選手が出場する大会のガイドブックで、応援に来ていた吹奏楽部の男子が表紙に起用されていたら、選手も吹奏楽部員も何を思うだろうか。
いやいや、甲子園という大会は選手だけでなく、マネージャーもチアも応援団も吹奏楽部も「かわいい女子」も含めて夏の風物詩として成立した祭典である——そんな理屈も成り立ちそうではあるが、それなら増刊のなかでせめて甲子園に関連して何かに打ち込む女子のコーナーとか、表紙になった人に甲子園への思いを聞くようなコーナーがあってよさそうではないか。
増刊には「チア」に言及するページも、「チア」の文字も見つけられなかった。表紙については「第106回選手権大会から」とだけあり、担当したカメラマンと編集者とデザイナーのクレジットがのるだけだ。
個人情報に配慮したのか、起用された本人が望まなかったのか、慣行なのかはわからないが、被写体となった女子の名前は今号に掲載されていない。
女子の「顔写真だけ」が表紙に起用されていると言ってよさそうだ。
SNS上では、同様の違和感を覚える人がいて、「甲子園名鑑の表紙を毎年恒例で女子高生にすることの気持ち悪さを。主役である球児が表紙でいいと思うんだが、そうはならない。」との発信がXで広く拡散した。
とはいえ、「表紙だけ女子」が完全に悪いとは言い切れないような気もするし、専門家に聞いてみたい。
スポーツ領域におけるハラスメントや「性の商品化」の問題を研究する明治大学政治経済学部の高峰修教授(体育・スポーツ社会学/ジェンダー研究)に聞いた。
●識者「女子であるべきか? といったそもそもの発想がないのでは」
高峰修教授(本人提供)
——甲子園大会の増刊が表紙だけ女性を扱うという事実がありますが、これには問題があるのでしょうか。
甲子園大会の雑誌の表紙が必ず女子。興味深いですね。なぜ女子なんでしょう。SNSでも疑問の声が出ているわけですね。
おそらく制作者側はこうした声には気づいてないんじゃないですか。ずっとこれまでやってきたもので、それを変えようとか、時代的にどうなんだろという違和感も覚えてないんじゃないでしょうか。
表紙を女子ではなく男子選手に代えたら売上が下がるのかも、とか、意図的にアイキャッチを狙っているというよりも、何も考えずにパターン化しているのかもしれません。
もちろん勝手にこの表紙になったわけではなく、決めた人がいるわけです。
増刊をつくる編集者たちが表紙を決めるまでの過程を明かしたネット記事(週刊朝日「甲子園」 表紙はこうやって決まる!)を読みました。
「甲子園」の看板と言えば、表紙の女子高生。チアガールや、スタンドで応援する女子高生たちはどうやって選ばれているのか。撮影にはどんな工夫があるのか――。(記事から一部抜粋)
このネット記事を読んでも、なぜ女子なのかという理由はわかりませんね。
表紙を決める会議では、前年の大会で撮影した数十枚ある候補写真の中から「今年の表紙写真」を選ぶそうです。ネット記事では5人の編集者たちが打ち合わせをしている様子も公開されていますが、全員が男性のように見えます。
つまり、圧倒的に男性の視線や感性で表紙をどうするか決めようとしています。こうした意思決定の場では、決定者たちの性別や年代、場合によっては国籍などの特性が決定結果に反映されます。
決定者が男性という属性に偏ったなかで、違和感なく、甲子園野球という極めて男らしいスポーツを特集した雑誌の表現として女子を選んだことになります。
このネット記事は2018年と少し古いものなので、今では表紙を決める人間の属性は変わっているかもしれませんし、議論の過程に変化はあるのかもしれませんが、アウトプットされる結果は今も同じです。
これがたとえば、スポーツ雑誌の「Number」の表紙はほとんどが男性アスリートで占められています。例外的に女性アスリート、あとは男女両者の表現もあるのですが、それとは対照的ですね。
一方、出版社はわざわざ消費者のニーズに沿わない表現はしないでしょうから、この雑誌の購読者の期待に応えた結果、とも言えます。
●この表紙にどんなメッセージが込められているか
——この表紙によって読者にどんなメッセージを伝えようとしていると言えるんでしょうか
この甲子園の増刊を買う人は甲子園に関心のある人でしょうから、そういう人たちは若い女性とセットで甲子園をイメージしているとも捉えることができます。
「甲子園」という文字と健康的な女子の組み合わせは、読者層のニーズにマッチしているのかもしれません。
かつての号をみれば、肌の露出が多い衣装を身につけたチアの女子も起用されています。日焼けして健康的で、活発で元気に男子を応援している、そんな女子が読者層に刺さると読み取ることもできそうです。
ある意味、「今の若い女性」に失われつつあるような存在をノスタルジー的に求めてるのかもしれません。
●女性を表紙だけ使う態度とアスリート盗撮に根底で共通するもの
——読者が求めるものを提供するというのはメディアのひとつの役目とも言えます
いまスポーツ界では盗撮がすごく問題になっていますよね。禁止されているのに隠れて撮影したり、撮影した画像にいろいろな性的なアレンジをして、様々な形で共有することが問題になっています。
スポーツ界側でもいろいろな対策を打っていますが、雑誌の表紙の問題はこの盗撮問題と根底でつながっているように感じられます。
甲子園野球で、さらに広げればスポーツ一般的に男性が中心で女性が脇役として位置付けられているのに、男性スポーツの報道ではあえて女性が表現されるのはなぜなのか。そこにある欲求の根底には、盗撮問題と共通するものがあると考えています。
メディアに許された撮影とは異なり、一般の人間が隠れて撮影して、性的な部分を強調するような撮り方だったりや調整だったりをして、画像を不適切に扱う——こうした行為は言うまでもなく犯罪です。
盗撮とメディアの正当な撮影はもちろん次元の異なる行為です。ですが、「男性のスポーツを扱う雑誌だけど、表紙には女性を使おう」という発想と盗撮行為は、スポーツにおいて女性を性の対象として扱うという点で共通していると思うのです。
一部の競技では、競技団体自らが女性アスリートのユニフォームを肌の露出の多いデザインにしてきましたが、それも共通していると言えます。
人間のジェンダーやセクシュアリティを人格から切り離して、金銭と交換可能なものにすることを「性の商品化」といいます。特にスポーツ業界では「女性の商品化」がしばしば問題視されてきました。
甲子園雑誌の表紙の問題は、こういう性の商品化が生じる構造との関わりから考えていく必要があると思います。
●「女子マネージャー」の話は暴力問題とも地続きである
話を高校野球に戻しますと、今でも主役は男子。猛暑の中でもグラウンドで汗を流して白球を追いかける。選ばれし男の中の男たちです。
そんな男子たちを、マネージャーや応援する女子と残りの男子が支えるという典型的な役割分担が高校生たちのスポーツでは色濃く残っていると痛感しました。
今年の出場校には、女子マネージャーが18人もいるチームもあるそうで驚きました。
日頃からジェンダー問題に敏感なメディアも、なぜか高校野球の性別役割分担には触れませんね。とても興味深いです。
これまで、女子マネージャーについてはこのような性別役割分担の視点から議論されてきました。女子マネージャーたちは、男子部員のためにスポーツドリンクや食事を準備したり、寮を掃除したり、練習着の洗濯をしたりもします。つまり男子部員の身の回りの世話、「ケア」をしてあげているのです。
見方を変えると、男子部員は本来、自分で自分自身のケアをすべきなのですが、その機会が奪われてしまっているようにも見えます。
ケアをされている男子部員は、自分たちのケアすらしないまま育つことを高校野球を通して実践してしまっている。
今大会においては男子部員間の暴力の問題もクローズアップされました。高野連に報告される不祥事が年間1000件以上だという報道にも驚きました。
周りの人をエンパワーするケアと、パワーを奪い去る暴力は、まったく対極にあります。
男子部員たちが周りの人どころか、自分自身のこともケアする体験をしていないことと、彼らが暴力問題に陥ることも、根底では繋がっているように感じられます。
甲子園野球も、あくまでも教育活動の中にあります。ケアの体験を通じて、暴力とは異なる周りの人との関わり方を学ぶことが、暴力問題の解消にとっても、高校球児の人間的な成長にとっても大切なのではないかと思います。
そのような意味では、まずは自分自身のケアを日頃から実践する、ケアの機会を男子部員に戻してあげる必要があります。女子マネージャーの存在は、男子部員たちの暴力問題と地続きなのかもしれません。
来年の雑誌をつくるため、この夏の大会に応援に来ていた女子の写真がすでに撮られているはずです。それをデスクに並べて、表紙を誰にするか会議が進められていくことになります。
来年号はどんな表紙になるんでしょうか。